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福岡高等裁判所 昭和54年(う)729号 判決

控訴人 原審弁護人

被告人 中山忠勝

弁護人 柴田國義 外一名

検察官 中野勇夫

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人柴田國義、同井上正治がそれぞれ差し出した各控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官が差し出した答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用し、これに対し次のとおり判断する。

弁護人柴田國義の所論は、原判示一の事実について、被告人は、千住敏明、千住広高、千住正興及び橋口時秋の四名(以下、「被害者ら」という。)を原判示の北側岩場に上陸させた直後、同人らに対し、原判示の南側岩場の高所を指さして、同所が安全な場所であること、潮が満ちてくると凹地に海水がきて右北側岩場から右南側岩場へ渡れなくなることを説明し、「南側岩場の高い所におれば安全です。潮が満ちてくると中間の低い所は波がくるので、潮が満ちてきたり、波が高くなつたりしたら、南側岩場の高い所に行きなさい。雨が降つてきたら燈台の崖下にある洞穴に行きなさい。」と指示したものであり、かつ、被害者らが被告人の指示に従い潮が満ちてくる前に右北側岩場から右南側岩場に移動しておれば本件の結果は発生しなかつたのであるから、被告人が被害者らに対し、右北側岩場で仮眠すること及び日没後夜明けまでの間右北側岩場で釣をすることを避けるよう指示しなかつたことと被害者らが本件遭難事故に出会つたこととの間には因果関係は存在せず、原判示一の事実について被告人は無罪であるのに、原判決が、いずれも信用性のない、原審第二回公判調書中証人千住敏明の供述部分、原審第三回公判調書中証人千住敏明、同橋口時秋の各供述部分及び原審第四回公判調書中証人御厨初芳の供述部分を関係証拠として採用し、他面、いずれも信用性のある、被告人の司法警察員(昭和五一年八月二七日付)、検察官(同年一〇月一日付)に対する各供述調書、原審第七回公判調書中被告人の供述部分及び被告人の原審公判廷における供述中右の弁護人の主張に符合する部分を関係証拠として採用せず、被告人は被害者らに対し、「高い所におれば安全だ。低い所は潮がさて渡れなくなる。」などと簡単な指示をしたのみであり、かつ、被告人において前記の指示をしなかつなことと本件の結果発生との間に因果関係は存在すると認定し、被告人を有罪としているのは、事実を誤認したものであり、その誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、右各証人の原審公判廷における供述がいずれも信用性のないこと、及び被告人の右各供述がいずれも信用性のあることは、(一)被告人の前記指示は、満潮の約二時間前の、前記北側岩場と前記南側岩場の中間に数か所の切れ目を生じたものの、その切れ目を飛び越えれば右両岩場の間を往来することは可能であつて未だ右両岩場が、その中間の低地に流れ込んだ海水によつて隔てられることなくつながり、そのため自然に右南側岩場の高所が被害者らの視界に入つてくる状況のもとでなされたこと、(二)被告人の前記指示は、被告人が被害者らに対し釣場のポイントの一つとして右南側岩場の南側の砲台跡を指示した際になされたこと、(三)千住敏明は、右北側岩場に上陸した直後に、周囲を点検し、潮が満ちてきたときに右北側岩場から右南側岩場へ渡れる地点を調べ、右南側岩場が陸続きになつていることを確かめ、右北側岩場の危険性を認識し、いざというときは右南側岩場へ渡つて陸地に避難することを考え、翌二三日(すなわち、本件遭難事故発生の日)午前四時半過ぎに仮眠から目覚めたとき、しけの気配を感じて右北側岩場から右南側岩場へ避難しようと試みたこと、(四)被告人は、当時、右両岩場の地形、並びに、潮の干満、気象、海象の変化に伴い右両岩場の状況がどう変わるかについて知悉していたから、被害者らに対し、右北側岩場の高い所にいれば安全であるなどという、誤つた、危険な指示説明をするはずがないことなどからして明らかであり(以上右弁護人の控訴趣意第一点)、また、いずれも原判示一の事実について、被告人は、被害者らを前記北側岩場に上陸させた当時、済州島西九州西海上風警報が発令されていたことは認識していたものの、他に天候悪化の兆しを知らせる報道はなされておらず、かつ、海上は平穏であつたため、右警報と海上の右状態とによつて本件遭難事故発生当時のように天候が悪化するおそれがあることを予見することはできなかつたのであり、しかも、被告人は、被害者らを前記北側岩場に上陸させた直後、同人らに対し、前記のとおり、「南側岩場の高い所におれば安全です。潮が満ちてくると中間の低い所は波がくるので、潮が満ちてきたり、波が高くなつたりしたら、南側岩場の高い所に行きなさい。」と指示したので、被害者らが満潮時になつても右北側岩場を離れないおそれがあることを予見することもできなかつたのであり、他方、被害者らは、被告人から右のとおり指示をされたのであるから、潮が満ちてくるまでに右南側岩場に移るか、あるいは、遅くとも翌二三日午前三時半ごろ仮眠から目覚めた際、いくらか風が出てきたことに気づいたときに、直ちに他の三人を起こして右南側岩場に移動すべきであつたのに、これをなさず、気象、海象の動きにさして意を留めることもなく、再び仮眠につき、そのうえ、千住敏明は、同日午前四時半ごろ再度仮眠から目覚めた後、千住正興らが泳いでも右南側岩場に渡るべきことを主張したのに、これを制止し、被告人が救助にきてくれることを期待して右北側岩場に留まつたため、遂に避難の時期を逸したものであつて、本件の結果発生の決定的原因は被害者らの行為にあつたのであるから、被告人には右結果の発生を回避すべき注意義務は存在しなかつたのに、原判決が、被告人は、被害者らを右北側岩場に上陸させた当時、本件遭難事故発生当時のように天候の悪化するおそれがあること、及び被害者らが満潮時になつても右北側岩場を離れないおそれがあることをそれぞれ予見することはできたと認定し、そのうえ、本件の結果発生の決定的原因は、第一次的には、被告人が被害者らに対し、右北側岩場が地形的、気象海象的に危険な状況下にあることを十分に説明したうえ、満潮や風波が強くなりだしたときは早目に右南側岩場に避難すべきことなど、避難すべき時期や方法等について十分な指示を与えることを怠つた行為にあり、第二次的には、被告人が被害者らに対し、右北側岩場が地形的、気象、海象的に危険な状況下にあることを十分に認識させたうえ、もし天候の悪化する徴候が現われたら早目に右北側岩場から避難し、仮眠する場合は右南側岩場か陸岸の安全なところでするようにし、右北側岩場で仮眠するようなことは絶対に避け、日没後夜が明けるまでの間は右北側岩場で釣をすること自体をも避けるよう指示を与えることを怠つた行為にあると認定し、被告人に対し本件結果発生の回避義務を肯定し、被告人の所為に業務上過失致死傷罪の規定を適用したのは、事実を誤認し、ひいては法令の解釈適用を誤つたものであり、その誤認及び誤りはいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄されるべきである(以上右弁護人の控訴趣意第二点)、というのである。

弁護人井上正治の所論は、原判示一の事実について、被告人は、被害者らを前記北側岩場に上陸させた直後、同人らに対し、「南側岩場の高い所におれば安全です。潮が満ちてくると中間の低い所は波がくるので、潮が満ちてきたり、波が高くなつたりしたら、南側岩場の高い所に行きなさい。」と指示したものであり、他方、本件事故は、客観的にみて被害者らが右北側岩場で仮眠する可能性は稀有であつたのに、同人らが、少し波が高いことを認識し、右北側岩場より約四メートル高い所のある前記南側岩場を目前にしながら、右北側岩場に上陸した当日の午後一〇時以降安易に右北側岩場で仮眠してしまつたばかりでなく、翌日午前三時ないし同三時半ごろ仮眠から目覚めた際、風が強くなつて釣ができないほどの状態であり、当時なら容易に右北側岩場から右南側岩場に渡ることができたのにこれをしなかつた、重大な過失により発生したものであり、かつ、被害者らが安易に右北側岩場で仮眠さえしなければ本件事故の発生は避けることができたのであるから、新過失論によれば、被告人には本件結果の発生を予見する可能性も、これを回避する義務もなかつたのであり、旧過失論によつても、被告人が被害者らに対し右北側岩場で仮眠することを避けるよう指示しなかつたことは(実質的で許されない)危険な行為にあたらないのに、原判決が、被告人は、被害者らを右北側岩場に上陸させた当時、同人らに対し、「高い所におれば安全だ。低い所は潮がきて渡れなくなる。」などと簡単な指示をしたのみであり、当時被害者らが右北側岩場で仮眠するおそれがあつたのに、被告人が被害者らに対し右北側岩場で仮眠することを避けるよう指示しなかつたことは危険な行為であり、被告人には、当時、本件の結果の発生を予見することができ、かつ、本件結果の発生を回避する義務もあつたとそれぞれ認定したのは、いずれも事実を誤認したものであり、その誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄されるべきである、というのである。

しかし、原判決の挙示する各関係証拠によると、原審第二回公判調書中証人千住敏明の供述部分、原審第三回公判調書中証人千住敏明、同橋口時秋の各供述部分及び原審第四回公判調書中証人御厨初芳の供述部分には、いずれもその信用性に疑念を挾む余地は存しないのであつて、右各証拠を含む前記各関係証拠によると、原判示事実は、各所論の点を含め、これを認めるに十分であつて、記録を精査し、当審における事実取調べの結果に徴しても、その事実の認定に誤りがあることを疑わせる証跡はない。すなわち、右各関係証拠によると、

1  本件遭難事故のあつた現場は、長崎県平戸島の北方約五・五海里付近に位置する島である。長崎県北松浦郡大島村(的山大島)の西端に位置する馬ノ頭鼻の岩場であつて、同岩場は、南北の長さ約一四〇メートル、東西の長さ約八〇メートルで、ほぼ半円形(すなわち、南北に通ずる直線を直径とする弦とし、その西方に円弧を描いた半円形)をなしており、その北方、西方及び南方の三方は海に面し、その東側には、屹立した、高さ約一五メートルの垂直な岩壁(断崖)があり、同岩壁は頂上の高さ約三六メートルの小高い丘(陸地)の西端となり、その丘の頂部付近には馬ノ頭鼻燈台が設置されている。右岩場の中央付近には東西にわたつて低地があり(以下、同低地の北側の岩場を「北側岩場」といい、同低地の南側の岩場を「南側岩場」という。)、更に北側岩場とその東側の岩壁との間にも低地がある。北側岩場及び南側岩場は、全体的にはほぼ平坦な形状であるが、凸凹が多く、北側岩場は北側及び西側がゆるやかに低く傾斜し、その東側の岩壁を登ることは通常不可能である。右両岩場は、岬の突端で、外海に面しているため、風がよくあたり、潮の流れもあり、西岬のため特に西風のときは相当の波が打ち寄せる。干潮時における最高点は、北側岩場において約三メートル、南側岩場において約七メートルであり、満潮時における最高点は、北側岩場において約二メートル、南側岩場において約六メートルである。干潮時においては、波が高くなければ、北側岩場と南側岩場との間の前記低地帯には、所所に海水の水たまりがあるものの、岩も露出しているので、露出している岩を伝つて北側岩場と南側岩場の間を人が往来することは容易であるが、満潮時においては、右低地帯には南北の幅員約数メートルの範囲にわたつて潮が入り込んで、北側岩場と南側岩場は分断され、わずかに右低地帯の西端部の中央付近に岩の一部が露出しているにすぎない状態となり、他方、北側岩場とその東側の岩壁との間の低地帯にも東西の幅員約数メートルの範囲にわたつて潮が入り込むため、北側岩場と南側岩場との間を人が往来することは著しく困難となり、北側岩場は孤立する。更に、夜間、満潮時に高さ一メートル位の波が打ち寄せれば、未だ水没していない北側岩場部分や、北側岩場と南側岩場との間の低地帯においてわずかに露出している岩も、打ち寄せる波によつて洗われ、滑りやすい状態となり、かつ、北側岩場や右露出岩には凹凸が多く、しかも右低地帯には、あるいは西側から波が流入し、あるいはその波が前記東側の岩壁にぶつかつて逆流し、あるいは右双方の波が衝突し合うなどして流入する海水が激動し、視界すら定かでないため、前記の往来は一層困難で、かつ危険となる。前記の小高い丘の南方には、南側岩場の東端付近から東方に向かつて人一人が通行することのできる、前記馬ノ頭鼻燈台のある陸地に至る通路(踏み跡)があり、右の小高い丘の南端には南向きの洞穴があり、南側岩場から右洞穴までは陸続きになつている。

2  被害者らは、磯釣のため、昭和五一年八月二二日午後五時三〇分ごろ長崎県平戸市汐ノ浦に到着し、被告人の長男の操縦する船舶「第一八かいゆう」に乗船して右平戸市のすぐ西方の薄香湾口まで赴き、同所付近の海上で被告人の操縦する原判示の汽船「かいゆう」に乗り移り、被告人に対し、平戸島の西方の生月島まで運送を依頼した。被告人は被害者らが約一五キログラムに達する撒餌を所持していたのを目撃し、同人らに対し、同島では撒餌が禁止されている旨を告げたところ、同人らから、他の、安全で、魚がよく釣れる場所に瀬渡しをするよう依頼されたので、これを承諾し、同日午後六時ごろ、同人らを前記馬ノ頭鼻まで運送して、北側岩場に上陸させた。

3  右上陸時、同所では、天候は晴で、秒速約二メートルの南風が吹き、わずかな波はあつたものの、海上は平穏であつた。

しかし、被告人にとつては、過去において、前記馬ノ頭鼻の岩場に上陸させた釣客が同所で磯釣中天候が悪化したため馬ノ頭鼻燈台のある前記陸地に避難したことも三回あつたのであり、磯釣客にとつて最も注意を要するものは風力であり、風が強まると波が高まるのであつて、釣客の遭難事故は、例年八月及び九月の台風の時期に、特に台風が釣場を直撃することなく(ちなみに、台風が釣場を直撃するときは、釣客全員が用心をするから釣客の遭難事故は殆ど発生しない。)、釣場に間接的な影響をもたらす程度に釣場から離れて通過するときに発生しやすいのであるが、被害者らが北側岩場に上陸した前日の昭和五一年八月二一日午後六時ごろには、台風一五号が中国上海付近に上陸して北上中であることが翌二二日の朝刊に掲載され(更に、同月二二日午後六時には右台風は東シナ海に至つて熱帯低気圧になり北上中であることが翌二三日の長崎新聞に掲載されているけれども、被告人が被害者らを北側岩場に上陸させた当時右情報を獲得することができたことを認めるに足りる証拠はないから、この点は考慮の外に置くこととする。)、かつ同月二二日午前七時一五分に済州島西、九州西海上風警報が発令されていたのであるから、被告人が被害者らを北側岩場に上陸させた当時、同人らが同所で磯釣をする予定の、同日午後六時ごろから後記の翌日午前一〇時ごろまでの間に、台風一五号くずれのうねり、風等が右台風(それが転化した熱帯低気圧を含む)の北上に伴い九州西岸殊に外海に面している北側岩場に影響し、同所の磯釣客が遭難するおそれのあるほど同所に高波が押し寄せるおそれのあることが予想された。

4  被害者らが北側岩場に上陸した昭和五一年八月二二日午後六時ごろは、同日午後一時二四分の干潮と同日午後七時五四分の満潮の中間時間帯であつて、潮位は徐徐に上がりつつあつた時期であり、右満潮の後は、翌二三日午前一時五四分に干潮が、同日午前七時三六分に満潮がそれぞれ到来し、右二二日の日没は午後六時五七分、右二三日の日出は午前五時五〇分であり、右両日は闇夜であつた。

5  被害者らが北側岩場に上陸した当時、北側岩場と南側岩場との間の低地帯には、潮が入り込んで数か所の切れ目を生じていたが、その切れ目を飛び越えれば右両岩場の間を人が往来することは可能であつた。被告人は、昭和四五年ごろから瀬渡し業を営んでいたものであるが、右上陸当時、前記台風一五号には特に留意しておらず、また、海上は平穏で、晴れていたため、翌朝まで同所の海上はたとえ波が少し高くなることはあつても、しけることはないと予想していたので、北側岩場から約一〇メートル離れた海上で停止中の汽船「かいゆう」の上から、被害者らに向かい、同船備え付けのマイクで、釣場のポイントは北側岩場の北端部分と南側岩場の南端の砲台跡部分であることを告げるとともに、安全な場所として南側岩場の高い所を指示する意思で、「高い所におれば安全です。低い所は潮がきて渡れなくなります。」などと筒単な注意事項を指示しただけで、翌朝被害者らを迎えにくる時間を午前九時ないし同一〇時ごろと合意し、前記汐ノ浦に引き返した。

被害者らは、いずれも、翌朝まで波風が強くなるとは全く予想しておらず、右岩場に上陸したのは初めてであつたところ、被告人からは、前記のとおり、自分達が相当の広さをもつ北側岩場にいるとき、単に「高い所」と指示されたので、南側岩場もその視界に入つてはいたけれども、被告人のいう「高い所」とは、北側岩場の高い所の意味であると解釈した。

6  千住敏明は、北側岩場に上陸した直後、北側岩場の周囲を点検し、南側岩場にも渡つて、同所が馬ノ頭鼻燈台のある前記陸地に続いていることや右両岩場の間の低地の海水の深さが約六〇センチメートルであることを確認し、万一の場合は北側岩場から南側岩場に渡り同所から右陸地に避難しなければならないことを認識した。

被害者らは、いずれも、その後北側岩場で釣をしたが、殆ど釣れなかつたので、翌朝が釣の勝負時期だと話し合い、上陸時より心持波が高いと思われる程度であつた同日午後一〇時ごろ、北側岩場の最も高い所で仮眠についた。千住敏明は、翌二三日午前三時三〇分ごろ北側岩場で仮眠から目覚めたが、波風は上陸時より少し増したと思われる程度で、釣をする気になれば釣に支障をきたさないほどのものであり、被告人からなされた注意を北側岩場の高い所におれば安全であるとの趣旨に解していたので、北側岩場に居続けても単に満潮時に南側岩場へ渡れなくなるにすぎないと考え、危険を感ずることなく、再び北側岩場で仮眠についた。千住敏明と橋口時秋は、同日午前四時三〇分過ぎごろ、北側岩場で仮眠から目覚めたところ、台風一五号くずれのうねり、風等が右台風の転化した熱帯低気圧の北上に伴い北側岩場を含む九州西岸に影響し、次第に波風ともに強まり、右岩場には高さ約三、四メートルの潮のしぶきが上がり、釣竿の糸を投ずるのにも困難を感じたので、もはや釣はできないと観念し、当時いずれも高校三年生であつた千住広高と千住正興を起こし、撒餌を捨てて、道具を片付け、避難態勢に移り、所持していた三個の大型懐中電燈を点燈し、これらで北側岩場と南側岩場との間の低地帯に南北の幅約七、八メートルにわたつて浸入した海水の水面を照らし、南側岩場へ渡るべき場所を探したが、闇夜でもあり、辺りは真暗なので、水面がきらきら光るばかりで、同所の深さも地形も分らず、千住敏明と千住広高が右低地帯の一部分に入つてみたところ、いずれもその胸部までつかつてしまつたので、被害者らは、危険を感じ、南側岩場へ渡るのをやめた。千住広高と千住正興は、いずれも、水泳は達者であつたので、南側岩場まで泳いで渡ることを主張したこともあつたが、千住敏明と橋口時秋は、いずれも、右状況からそれは危険であると考え、これを制止した。千住敏明と橋口時秋は、南側岩場へ渡るのが危険である以上、海上がしけたら被告人が迎えにきてくれると信頼し、それを待つことにした。その後も波風は次第に強まり、雨も強く降り出したため、同日午前六時五〇分ごろには北側岩場に置いていた道具類もすべて流され、被害者らはいずれも自己の身が流される思いをした。被害者らは、そのころから釣具の一種である、直径約六ミリメートル、長さ約五メートルのナイロン製ロープをそれぞれの腰に一回ずつ巻いて、北側岩場の高い所の東側に這いつくばり、西方から打ち寄せる波に流されるのを防いでいたが、風は強まり、波は高まり、更に西方から打ち寄せる波や、前記岩壁にぶつかつて打ち返す波や、右両波がぶつかつて水柱のように上がる波にもまれ続け、遂に同日午前七時一五分ごろ西方から北側岩場の高い所を越えてきた波によつて、海に流されるに至つた。その後、千住敏明は、北側岩場の東端の南部付近から南方に向かつて海水中を少し伝い歩いた後泳いで南側岩場へ渡り、北側岩場方面を見渡したが、既に千住広高及び千住正興の姿は見当らなかつたので、馬ノ頭鼻燈台のある前記陸地に上がつた。一方、橋口時秋は、一たん運よく北側岩場に這い上がり、千住広高と千住正興が北側岩場の東側中央付近とその東側の岩壁との間付近の海中で波にもまれて見えなくなつたのを目撃し、北側岩場に約二〇分間ふせていた後、このままでは体力が消耗すると思惟し、救命胴衣をつけていたので自ら海中に飛び込み、泳いで千住敏明の姿の見えた断崖の方に向かつたが、押し流され、海中に飛び込んだ三〇分後ごろ被害者らの救助にきた玄海釣センターの船に救助された。千住正興の遺体は同日午前一一時ごろ、千住広高の遺体は同日正午ごろ、いずれも北側岩場の北側の東端部のやや北方の地点から救助隊員によつて引き上げられた。千住敏明と橋口時秋はそれぞれ右遭難事故によつて原判示のとおりの傷害を受けた。

7  同日午前八時三〇分ごろ、海上保安官が、行方不明になつた千住広高及び千住正興を捜索するため、巡視艇「かいどう」に乗り組んで北側岩場付近海上を航走した際、天候は本曇で曇雲は全天に広がり、風は北西、風力は五(秒速約五ないし八メートル)、うねりの方向は西北西、波高は約四、五メートル、波長は約三〇メートル、うねりの表面に直接北西風で波立つ波浪の波高は約三〇ないし五〇センチメートルであり、うねりの方向と約三〇度の角度をもつて波頭がくだけ、白波が立つていた。

8  潮が干満により変化する場合も、本件事故当時のように次第に天候が変化する場合も、波は少しずつ変化するにすぎない。

以上の各事実を認めることができる。

右各事実を総合し、更に、被害者らは、通常人の睡眠時間帯を含む、前記のような長時間北側岩場に滞在する予定であつたから、その間同所で仮眠することが予想されたことをも勘案すると、被害者らが北側岩場に上陸した当時、同人らは、被告人から、同所は高波が押し寄せるおそれがあるため危険である旨の指摘を受けてはいなかつたため、北側岩場の危険性に気づかず、あるいは同所で釣に没頭し、又は同所で仮眠し、若しくは同所に夜どおし居続けても単に満潮時に南側岩場へ渡れなくなるにすぎないと安易に考えて時を過し、しけが誰の目にも明白になつて危険が切迫するまで北側岩場に居続け、南側岩場に渡る時期を逸して北側岩場で遭難するおそれのあることが予見されたのであるから、このような場合、瀬渡し業者である被告人としては、被害者らに対し、少なくとも、風が強くなつて波が高くなるおそれがあり、満潮時や波が高いときは北側岩場と南側岩場との間の低地帯に海水が浸入して北側岩場は孤立し、夜間においては北側岩場から南側岩場へ渡る時期を逸するおそれがあるから、満潮時や夜間においては北側岩場は危険であること、及び、やがて日没と満潮が到来することを説明して北側岩場の危険性を認識させたうえ、最初の満潮が到来する前の明るいうちに前記馬ノ頭鼻燈台のある陸地に続いている南側岩場へ渡り、同所で釣をするよう注意をして、本件遭難事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があつたのにこれを怠り、単に「高い所におれば安全です。低い所は潮がきて渡れなくなります。」などという簡単な注意しか与えなかつた過失により、被害者らをして、北側岩場の危険性に気づかないまま、同所で、長時間釣に没頭させたり、仮眠させたり、北側岩場に居続けても単に満潮時に南側岩場へ渡れなくなるにすぎないと安易に考えさせたりして、南側岩場に渡る時期を逸しさせ、北側岩場で本件遭難事故を惹き起こしたものであつて、被告人が前示結果回避義務を講じておけば本件事故の発生を防止することができたと認めるのが相当である。なるほど、本件事故の発生については、被害者らにも、被告人の指示した「高い所」の趣旨が客観的にみて「南側岩場の高い所」と解される可能性がなかつたわけではないのに、これを「北側岩場の高い所」と軽信したり、上陸後その日の次の満潮に至る前の明るい時期や翌日午前一時五四分の干潮時及びその前後の潮の入り込まない時間帯に南側岩場へ渡らなかつたり、海上がしけたら被告人が迎えにきてくれると軽信したりした過失があつたと認められることは、各所論の指摘するとおりであるけれども、その程度の過失の存在は、本件のような事情のもとでは、一般の磯釣客にありがちなことであるところ、被告人は、磯釣客の生命、身体に対する危険を包蔵する瀬渡し業務に従事していたのであり、一般に磯釣は、いわゆる素人である、ごく一部の社会人が行なう余技であるリクリエーシヨンの一種にすぎないため、瀬渡し業務は磯釣客の生命、身体に対する危険について社会生活上要求される注意(瀬渡し業者としては、磯釣客に右の程度の過失の存在することを予見して適切な注意を与えることが要求される。)を少しでも一般の磯釣客に分担させて軽減されるべき筋合の事務ではなく、瀬渡し業者は、磯釣客が自らその生命、身体に対する危険を回避するため気象、海象、釣場の状況等に従つた適切な行動をとつてくれるものと信頼して瀬渡しをすればたりるものではないのであるから、被害者らの右過失の競合を理由として被告人の前記過失と本件事故の発生との間の因果関係を否定することはできないものといわなければならない。以上のとおりであつて、結局、原判示の「(罪となるべき事実)」を肯認することができる。弁護人柴田國義の所論の指摘する前記間接事実のうち、被告人が被害者らに対し前記指示をした当時、北側岩場と南側岩場との間の低地帯には、潮が入り込んで数か所の切れ目を生じていたが、その切れ目を飛び越えれば、右両岩場の間を人が往来することは可能であつたこと、右指示は、被告人が被害者らに対し、釣場のポイントとして南側岩場の南端の砲台跡部分を告げたときになされたこと、当時、被害者らは、南側岩場もその視界に入れていたこと、千住敏明は、北側岩場に上陸した直後、北側岩場の周囲を点検し、南側岩場にも渡つて、同所が馬ノ頭鼻燈台のある前記陸地に続いていることや右両岩場の間の低地帯の海水の深さが約六〇センチメートルであることを確認し、万一の場合は北側岩場から南側岩場に渡り同所から右陸地に避難しなければならないことを認識し、翌二三日午前四時半過ぎごろ北側岩場で仮眠から目覚めたとき、波風ともに強まり、右岩場には高さ約三、四メートルの潮のしぶきが上がり、釣竿の糸を投ずるのにも困難を感じたので、釣はできないと観念し、避難態勢に入り、南側岩場へ渡ろうと試みたこと、被告人は被害者らに対し北側岩場の高い所にいれば安全であるという指示説明をしたものではなかつたことは、いずれも、前認定のとおりであるけれども、それでもなお、被告人には過失が存在したこと、その過失の内容及びその過失と本件事故発生との間に因果関係が存在したことは、いずれも、さきに説示したとおりである。被告人の司法警察員に対する昭和五一年八月二七日付供述調書、被告人の検察官に対する同年一〇月一日付、同年一一月一八日付(八丁のもの)、同年一二月一四日付各供述調書、原審第一、第七回各公判調書中被告人の各供述部分、被告人の原審及び当審公判廷における各供述中前記認定に反する部分は、他の前掲各関係証拠と対比して信用することができず、原判決もその挙示する、被告人の検察官に対する右各供述調書、原審第七回公判調書中被告人の供述部分及び被告人の原審公判廷における供述中右認定に反する部分は採用しない趣旨であることが明らかである。原判決には、各所論のような事実の誤認はなく、従つて、弁護人柴田國義の所論のような法令の解釈適用の誤りもない。論旨はいずれも理由がない。

それで、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 桑原宗朝 裁判官 池田憲義 裁判官 寺坂博)

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